浮き足立つ

男は悩んでいた。
生まれつき男には人と違う特徴があった。通常人は二本の足を交互に前へと運び移動をする。一般に歩行と呼ばれる動作である。しかしこの男の場合、身体の構造が根本から全く普通と異なっているため歩行ができないのである。ではどうするのかというと、身体は直立のまま、前後と左右にホバー移動する事で目的の地点へと向かう。この、前後と左右に方向が限定されているのが厄介である。斜め移動ができないからだ。また、身体を横に向けたり振り返ることもできないため、基本的に前方だけを見る生活をしている。
男は東京都杉並区のアパートに一人で暮らしている。築年数はかなり古めであるが、月家賃6万と安く、駅近なので男は即決で入居した。部屋は二階であるがこれにはさほど困らない。先述の通り男はホバー移動、つまり若干空中に浮いている状態のため、頑張れば階段の一段分程度なら登れるらしい。一段登れるならば後は何段あろうが変わらないという事だ。
しかし、やはりこの体質柄様々な悩みは降りかかるものであり、このアパートに住む上で一番の問題は騒音である。男のホバー移動はめちゃくちゃ音がでかいからだ。洗車用の強力な水圧のシャワーを10人が持ち、1台の軽自動車に向けて一斉に発射したとする。おそらく結構な音になるだろう。
それくらいの音量を日常生活で垂れ流しにしてくるのだから、近隣の住人にとってはたまったものではない。現に別の部屋では住人が引っ越し、空いた部屋に事情を知らない者達が入居しの悲惨なサイクルが発生している。
ある日、耐え難い騒音に住人達は男を槍玉に挙げ、苦情や叱責をここぞとばかりに叩きつけた。鬱積の爆発、不平不満の嵐である。「貴様何さらしとんじゃ」「10人がかりで洗車でもしとんのか」などの無慈悲な罵詈雑言が飛び交った。
しかしながら生まれつきであり、本人も悩んでいる旨を知ると住民達はそれ以上責め立てられず、一抹の同情すら覚えてしまっていた。とはいえ我慢し続けるのも困難極まる選択である。結果として、男はできるだけ深夜の活動は控えて頂きたいという住人達の切な願いを受け入れ、眠れない夜は直立のまま動かずに夜をやり過ごすようになった。
そんな悩み多き男も働かねば食べていけず、当然ながら仕事をしている。体質上運動量の多い仕事は避けざるを得なかったため、コールセンターに勤めてもうじき3年になる。日照権の侵害にあたる建造物をサーチする事が主な業務であり、社内の至る所にサンバイザーを被ったおばさんの絵が額に入れて飾ってある。
男の雇用形態はアルバイトであり、正社員登用制ではあるものの従業員が多数いる中で抜きん出るのは難しい状態だった。
それでも独り身であれば食いっぱぐれない高時給のバイトなので、多少休みが取れずとも、休みがいきなり出勤になろうとも惰性で続けていた。
が、ある日突然男が切れた。事もあろうに真上に浮き始め、天井に引っかかったまま戻ってこなくなってしまったのだ。
建築の現場関係、引越し屋などは肉体労働だが、コールセンターは精神労働であると言われている。男は日々電話越しにぶつけられるお客様の理不尽により蓄積されてきたフラストレーションがその日突然噴火してしまった。
上司や同僚達はとりあえず呼び戻してはいるが、眼前の出来事に動揺を隠せていない。すぐに社員の報告により駆けつけた責任者が脚立を持って登場した。脚立に登って浮いている男の足を掴み、引き戻し、少々手荒だがそのまま身体を椅子に縛り付け固定して落ち着くのを待った。
十数分後に男はやっと我に返った。記憶が飛んでおり何があったのか周りに尋ねたが誰一人目を合わせず、責任者は男に別室に来るよう言いつけた。
面談用に取った小さい会議室にて、責任者は事の一部始終を目撃した男の一人の上司に事情を話すよう命じた。それを知った男へ責任者は、「今後またこのような事があっては、とてもじゃないがフォローしきれない。辞めてほしい」と伝えた。
男は「了解です」と言って応じた。
その日の帰宅途中、職を失った男のホバー移動はこれまでになく重かった。駅の人混みの中、人にぶつからないよう気をつけてはいるが真横に移動した時後ろから来ていた人に邪魔になるため舌打ちをされる。男はいろいろ限界になってしまい、座りたくなったので人気のない公園のベンチで何も考えずに一息つくことにした。
どっか、と重い腰を下ろし大きなため息を吐いて紫色の空を焦点も合わせずに眺めていた。
しばらくすると前方からこちらに向かって人が歩いて来る。だんだん姿が確認できるところまで近づいて来てよく見るとサンバイザーを被ったおばさんだった。
男が「俺の会社に飾ってた絵のやつじゃん。あ、もう俺の会社じゃねーや わはは」とか思っていると、サンバイザーおばさんは男の目の前まできて立ち止まった。
手元には薔薇を持っている。
「え、なんすか?」男が聞くとおばさんは間髪入れずに薔薇で男の頭をひっぱたき、「愛!!!!!!!」と叫んで立ち去って行った。
男は浮き足立ち、また真上に浮き始めてしまった。

0コメント

  • 1000 / 1000